


歌舞伎の観客は高齢化しているため、若い客を呼び込むために字幕での案内や席の角度に工夫があるようです。
字幕案内では1から10まできちんと理解、勉強しましょうというような雰囲気になってしまいそうでちょっと心配。字幕があれば「何を言っているのかわからない」という問題は解決できるけど、楽しむとか、雰囲気を味わうというようなことは解決できない。
地芝居に関わっていると、ただ見るだけより実際に演じてみると歌舞伎って意外にわかるもんだと思える。(その分、どうしても理解できない感覚もあるのだけれど...)
地芝居の立場からは、演じるという親しみ方もあるのではー?と提案したくなります。
わかりやすいものは馴染みやすい。
だけどそれだけじゃ、乗り越えられないようなこともきっと生きてりゃ起こる。
理解できない状況が起こってもそれなりに付き合っていくしかない。
芝居ってそんな、人生の練習なのかも。
プロの役者たちからすれば、地芝居の存在なんて関係ないかもしれないけれど。
杮落としや、劇場の様子をテレビや新聞で見ていると、飯田市のお菓子屋さん和泉庄のいろはきんつばが度々出てきます!実際に焼いている様子も!!

お隣の市・飯田市は和菓子の町。
半生菓子やお土産売り場のお菓子の多くは飯田市で作られています。
飯田市は城下町ということで、茶道もさかん。和菓子もいろいろある…。
遠い東京の銀座にある歌舞伎座と飯田市にもこんなつながりがあるんですね~。下條歌舞伎保存会でも歌舞伎座に行きたいと盛り上がっています

いろはきんつばのいわれは『下條歌舞伎保存会40周年記念誌』(2012)の「日本の演劇学の巨匠 河竹繁俊を育んだ土壌は下條歌舞伎にあった」にも書かれています。

河竹繁俊さんは飯田市山本で生まれ、早稲田大学へ進学し、演劇にのめりこんでいきます。そして、坪内逍遥のすすめで歌舞伎劇作家河竹黙阿弥の娘の養子に。

河竹黙阿弥は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。
「こいつは春から縁起がいいわえ」「知らざあ言ってぇ聞かせやしょう」といったセリフも黙阿弥によるもの。
そんな河竹家に養子に入った繁俊さんは歌舞伎史や演劇史を研究しました。
繁俊さんの生まれ故郷の飯田市山本にもかつて地芝居がありました。飯田・下伊那の各地域で芝居が演じられていました。
そして繁俊さんのお母さんは下條村の人。繁俊さんの芝居研究への道は下條歌舞伎にあったのかも?
昔のことはあまりはっきりしませんが、繁俊さんが歌舞伎座と和泉庄のきんつばを結び付けてくれたのはたしか。地芝居と歌舞伎が身近に感じられるエピソードです。
繁俊さんの息子登志夫さんによる『作者の家』にも繁俊さんのことが描かれています。